自動潮汐
帰宅すると、浴室の操作パネルだけが点いていた。
湯張りの予約をした覚えはない。けれど画面には、見慣れない表示が出ている。
「自動潮汐を開始しました」
浴槽には、半分ほど水が入っていた。湯気はなく、代わりに水面がゆっくり上下している。窓のない浴室なのに、壁のタイルには夜の海みたいな青い光が揺れていた。
疲れていたので、深く考えないことにした。
シャワーを浴び、浴槽に足を入れる。水は少し冷たい。けれど肩まで沈むころには、体温に合わせたようにぬるくなった。耳の奥で、小さな波の音がした。
目を閉じる。
昼間の記憶が、順番に浮かんできた。開けっぱなしのメール。途中で閉じた資料。返信しなかった短いメッセージ。昼食の味は思い出せないのに、レシートの折れ目だけは妙にはっきりしている。
水位が少し上がる。
そのたび、どうでもいい出来事が遠くへ流されていく気がした。エレベーターで隣に立った人の靴。会議室の時計の秒針。帰り道で見た工事中の白い囲い。
残ったのは、朝、誰かに「またあとで」と言った声だった。
誰に言ったのか、思い出せない。
操作パネルが短く鳴る。
「本日の記憶を最適な深さに調整しました」
ぼくは浴槽の中で笑ってしまった。そんな機能、説明書にはなかったはずだ。
湯から上がると、床はまったく濡れていなかった。タオルだけが少し潮の匂いを含んでいる。排水口のまわりには、細い白い輪が残っていた。
寝室へ戻ると、スマートフォンに通知が来ていた。生活管理アプリからだった。
「今日の疲労を保存しました」
下に、小さく続いている。
「不要な出来事は、明日の朝までに引いていきます」
翌朝、確かに体は軽かった。
ただ、誰かに何かを約束していたような気がして、しばらく玄関で立ち止まった。