予備席
終電を一本逃した。
次の電車はもうない。改札の外へ出ればよかったのに、雨が強くて、ぼくは駅の待合室に残っていた。
ベンチには誰もいない。壁の時計だけが、まだ仕事を続けている。
しばらくして、窓際の一人掛けの席に小さな紙が置かれているのに気づいた。
「予備席」
そう書かれている。
忘れ物かと思って近づくと、紙の下から薄い光が漏れていた。座面に埋め込まれた画面だった。古い切符くらいの大きさで、そこに短い文が表示されている。
「本日使用されなかった帰宅を保管しています」
意味が分からなかった。
でも、その席だけが少し温かそうに見えた。濡れた上着を抱えたまま、ぼくは立っているのに疲れていた。
座ると、待合室の音が一段低くなった。
雨音も、遠くの踏切も、清掃員の台車の音も、全部どこか奥へ圧縮されていく。代わりに、ありえた帰り道が頭の中に流れた。
一本前の電車に間に合っていた自分。
コンビニで傘を買わなかった自分。
誰かに「もう帰る」と送って、そのまま本当に帰った自分。
どれもたいした人生ではない。けれど、どれも少しずつ軽そうだった。
画面がまた光る。
「この帰宅を復元しますか」
はい、いいえ、のボタンはなかった。
そのかわり、座面の下から小さな紙が出てきた。さっきの紙と同じ大きさで、今度はこう書かれている。
「予備席は、まだ帰っていない人のために残されています」
ぼくは立ち上がった。
雨はまだ降っている。電車ももう来ない。
それでも駅の出口へ向かうと、背後で席がきしむ音がした。
振り返ると、誰もいない席の上で、紙だけが少しへこんでいた。
まるで、帰れなかったぼくの分まで、誰かが座っているみたいだった。