普通の鏡
服屋で、白いシャツを一枚取った。
買うつもりはなかったけど、入口の棚で少し涼しそうに見えた。
店員に案内されて、試着室へ入る。
カーテンを閉めると、正面の鏡がやけにきれいに映った。
最近の試着室はすごいな、と思う。
まだ着替える前なのに、鏡の中のぼくはもうシャツを着ていた。
白ではない。
淡い灰色のシャツだった。
手元のハンガーを見る。
持って入ったのは、やっぱり白いシャツだった。
デジタル試着というやつだろうか。
ずいぶん自然にできている。
鏡の中のぼくは、袖口を軽くつまんでいた。
似合っているのかどうか、自分でも分からない顔だった。
白いシャツに着替える。
悪くはなかった。
ただ、少しだけ仕事帰りみたいに見えた。
鏡を見ると、灰色のシャツを着たぼくは、さっきより少し納得した顔をしていた。
カーテンの外から声がした。
「こちらも、よろしければお試しください」
隙間からハンガーが差し出される。
淡い灰色のシャツだった。
さっき鏡の中で見たものと同じだった。
やっぱりそういう機能なのだと思った。
少しやりすぎな気もしたけれど、確かに白よりはその色のほうがよく見えた。
灰色のシャツに着替える。
鏡の中のぼくは、もうそのシャツを着たままカーテンを開けていた。
ぼくはまだ、ボタンをひとつ留め残している。
数秒後、同じようにカーテンを開ける。
店員が戻ってきて、少しうなずいた。
「そちら、いいですね」
ぼくは、そのまま会計をお願いした。
会計のとき、何気なく言った。
「ああいう試着室、便利ですね」
店員は少し不思議そうな顔をした。
「試着室、ですか」
「鏡で、着る前に感じが見られるので」
店員は一度、試着室のほうを見た。
それから、やわらかく笑った。
「鏡があるだけの、普通の試着室ですけどね」
そう言って、レシートを紙袋に入れた。
店を出る前に、もう一度だけ試着室のほうを見る。
カーテンは閉まっていて、鏡は見えない。
ぼくは少し急いで店を出た。
先に出ていった自分に、追いつくみたいに。