上がる日
久しぶりに陸へ上がることにした。
集合場所は、浅場の浮上口だった。
先に来ていた人たちは、陸上用の履き物を袋から出したり、呼吸用のタンクの残量を確かめたりしていた。
今日のポイントは、防波堤の向こうにある草地だった。
ガイドは、上がってすぐ立たないように確認した。
「最初は手をついてください。足だけで支えようとしないで」
端末には、陸上時間、高度、気温、湿度が表示されている。
浮上口には、陸へ続くゆるい斜面がついていた。
ガイドに続いて、水面へ向かう。
光が近づき、音が薄くなった。
顔を出すと、風があった。
水の流れとは違う。体を押すのではなく、表面だけを撫でて通り過ぎていく。
体が水面から出るにつれて、自分の重さが少しずつ増えていった。
ガイドはもう斜面の上にいて、まるで普段から陸にいるみたいに軽く立っていた。
ぼくはゆっくり上がり、履き物を片方ずつつけた。
立ち上がると、地面は動かなかった。
どこにも流されない感じを、少しずつ思い出した。
防波堤を渡って、草地へ出る。
足元で乾いた音がした。
小さな虫が跳ね、鳥の声が上から落ちてきた。
水を通さない音は、輪郭だけが妙にはっきりしていた。
ガイドはときどき、虫や鳥の名前を教えてくれた。
坂を少し上がったところで休む。
ぼくはゆっくり仰向けになった。
体の重さが、背中から地面へゆっくり預けられていく。
空が、全部見えた。
海の中から見上げる空もきれいだ。水面で揺れて、光がほどけて落ちてくる。
けれど陸の空は揺れなかった。
どこまでも薄く透き通っていて、雲だけが、泳がずに流れていた。
下には海が広がっている。
いつも暮らしている場所なのに、上から見ると、ただ光る面に見えた。
その下に道や家があることを、陸の鳥は知らないかもしれない。
戻る前に、端末を見た。
陸上時間 24分
最大高度 9m
気温 24℃
湿度 46%
まだ24分しかたっていないのが、少し不思議だった。
帰りは、斜面まで黙って歩いた。
水に戻ると、体がふっと軽くなる。
音が丸くなり、草の匂いがすぐに遠くなった。
振り返ると、陸は水面の向こうで細く揺れていた。
その夜、眠る前に、草地から見た空を思い出した。
近いうちに、また上がりたい。