底の朝
朝、コップに水を注いだ。
半分ほど飲んで、残りを机の端に置いた。
出かける前に飲みきるつもりだったけれど、靴下を探したり、天気を確認したりしているうちに、そのままになった。
玄関を出るとき、一度だけ戻ろうかと思った。
でも、戻るほどのことでもない気がした。
昼間、何度か水を飲んだ。
駅のホームのペットボトル。
店のグラス。
紙コップに入った水。
そのたび喉は潤ったけれど、朝のコップのことは思い出さなかった。
夕方、部屋へ戻ると、机の上にそのコップがあった。
水は底にひと口分だけ残っている。
窓の外はもう暗くなりかけていた。
それなのに、コップの底だけ、まだ朝の部屋に置かれているみたいだった。
捨てようとして、流しまで持っていく。
少し傾けると、水はすぐには流れず、底の丸みに沿ってゆっくり動いた。
それを見て、飲んでもいい気がした。
口をつける。
冷たくはなかった。
ぬるいとも少し違った。
味はほとんどしない。
けれど、口の中に、出かける前の部屋の明るさだけが少し残った。
飲み終えると、コップは急に軽くなった。
流しに置く。
空になった底に、窓の暗さが丸く映っていた。